科挙(官僚登用試験)合格を目指していましたが52歳の時に故郷の歙県に戻り、親戚で明墨の製墨名家である呉叔大の支援を受け、墨型や墨名を借用して創業しました。
堂号ははじめ玄粟斎でしたが康熙帝の諱に玄の字があったため後に芸粟斎と名乗りました。康熙帝時代から乾隆帝時代にかけて隆盛した製墨業も道光、咸豊年間になると戦乱が相次ぎ衰退の一途をたどります。
曹素功墨庄は活路を求め常州、次いで蘇州に店を移し生産することはありませんでしたが販売にあたりました。更に1864年、九世曹端友のときに上海へ移ったとのことです。上海へ来たばかりの時は資金難のため生産設備を復旧することができませんでしたが、査という姓の人が出資し、曹家が技術を提供して共同で製墨をしたそうです。その後各家独立し査氏は査二妙堂墨庄を開店したそうです。
1886年九世曹端友は良質な原料を確保するため歙県潜口鎮に煉煙房を設け、採取した油煙を上海に運び製墨にあたったそうです。
1956年公私合営化のもと、上海胡開文(広戸氏老胡開文)と合併し上海墨廠へと変わり文化大革命の時代へ突入していきます。現在では上海周虎臣曹素功筆墨有限公司が曹素功ブランドを登録していて、安徽績渓県の安徽良才墨業有限公司が徽歙曹素功墨庄として芸粟斎ブランドを登録していて胡開文同様に曹素功を名乗る墨庄が何軒かあります。
曹素功 黄山松煙
種類 | 1両(約31g 1/16斤) |
---|