人工的に書画用の墨が作られる以前の墨の痕跡として、史前の彩陶紋、商周の甲骨文、竹簡等に見られます。その後、考古発掘により戦国時代にはすでに筆と墨が使用されていたとされています。
当初は木炭の粉を漆で溶いた液が用いられ、漢代には漆で丸く固めた墨丸や松を燃やした煤(松煙)が使われるようになり、三国時代には膠で固めた扁平な墨がつくられるようになりました。唐代には徽墨の創始者といわれる李超が河北省易水から戦火を逃れて歙県に移り住み製墨に励み、その子の李廷珪が南唐の墨務官に任命されると全国の製墨の中心が歙県になっていたといわれます。
今でも徽墨に易水法という製法がみられる所以です。宋代には油煙墨が作り始められ蘇東坡、黄山谷らの書画家の作品に使われたといわれる潘谷が有名で、明代になると程君房、方于魯、邵格之らの巨匠があらわれ、数々の宝墨を残しました。日本の徳川美術館にも当時の徳川家が集めた明墨が数多く収蔵されています。
清代の四大製墨名家としては曹素功、汪近聖、汪節庵、胡開文が有名です。曹素功と胡開文は各地に分店をつくり墨のシェアを二分していたそうです。
1950年代に入るとと企業の合併統合が行われ、徽州の墨店は胡開文を中心に歙県徽墨廠に、上海では曹素功を中心に上海近郊の胡開文の分店も統合されて上海墨廠となりました。文革がおわり1980年代に入ると、各工場で働いていた職人たちはそれぞれ胡開文と曹素功ブランドで墨の製造を行う個人経営の工房に分かれていき、現在では同じ胡開文と曹素功を名乗る工房が数十か所あるといわれます。
日本へは高句麗を経由して製墨が伝えられ、製墨の記録が日本書紀の中に記載されています。奈良時代には平城京や播磨国で墨が作られ、平安時代には松煙墨の生産が盛んになり紀伊の藤代墨や近江の武佐墨が知られ、室町時代には奈良で油煙墨が作られるようになり、南都油煙墨と呼ばれ松煙墨よりも色が濃く評価されたそうです。
明治に入ると墨液が発明され現在の開明株式会社様の創業者の方が世に初めて開明墨汁を発売されたそうです。現在では様々なメーカー様が性能が良い墨液を販売されています。
ここでは弊社が輸入し在庫している中国ブランドの墨をはじめ、店主セレクトの日本国内メーカー様の墨や墨液、掘り出し物古旧墨をピックアップして紹介します。
老胡開文
胡天注が1700年代に創業した墨店が胡開文です。店名の開文は徽州府孔廟の“天開文苑”の額からとったということです。数ある胡開文を名乗る工房の中でも歙県徽墨廠が前身の本流筋で自らを他と区別するために頭文字に“老”を付しているのでしょうか、その老胡開文でさえもあちこちに数軒あるようです。それぞれの皆様が我こそが我こそが胡開文の継承者ですと競り合っているようにも見えます。1999年から会社内に安徽歙硯廠も併設されていて、歙州硯の老坑原石を大量に収蔵し専門の硯工が製硯に精を出しています。
曹素功
科挙(官僚登用試験)合格を目指していましたが52歳の時に故郷の歙県に戻り、親戚で明墨の製墨名家である呉叔大の支援を受け、墨型や墨名を借用して創業しました。
堂号ははじめ玄粟斎でしたが康熙帝の諱に玄の字があったため後に芸粟斎と名乗りました。康熙帝時代から乾隆帝時代にかけて隆盛した製墨業も道光、咸豊年間になると戦乱が相次ぎ衰退の一途をたどります。
曹素功墨庄は活路を求め常州、次いで蘇州に店を移し生産することはありませんでしたが販売にあたりました。更に1864年、九世曹端友のときに上海へ移ったとのことです。上海へ来たばかりの時は資金難のため生産設備を復旧することができませんでしたが、査という姓の人が出資し、曹家が技術を提供して共同で製墨をしたそうです。その後各家独立し査氏は査二妙堂墨庄を開店したそうです。
1886年九世曹端友は良質な原料を確保するため歙県潜口鎮に煉煙房を設け、採取した油煙を上海に運び製墨にあたったそうです。
1956年公私合営化のもと、上海胡開文(広戸氏老胡開文)と合併し上海墨廠へと変わり文化大革命の時代へ突入していきます。現在では上海周虎臣曹素功筆墨有限公司が曹素功ブランドを登録していて、安徽績渓県の安徽良才墨業有限公司が徽歙曹素功墨庄として芸粟斎ブランドを登録していて胡開文同様に曹素功を名乗る墨庄が何軒かあります。
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