中国四大発明の一つとされる造紙術。西漢時代が起源とされ、東漢(西暦100年頃)の時代には蔡倫という人によって改良されそれまで使用されていた竹簡に代わり樹皮、麻の繊維などの植物繊維を原料とするおおむね現代の製法に至ったことが有名で首都洛陽から中国各地へ伝わりました。7世紀になって造紙術は日本に伝来し8世紀に欧州各地へ伝搬したといわれます。その後技術は各国各地で独自の発展を遂げ、現在では多種多様な書画用紙を享受することができます。
竹紙
竹紙の製造の歴史は晋代まで遡り、唐代に製造が盛んになり宋代になって成熟したといわれます。北宋の蘇軾、南宋の周密などが言及しています。宋代元代には竹紙は書画に使用され、最も大量に使用された用途が印刷用紙としてでした。明代、清代になるとその生産量は莫大な量になり漂白をはじめ様々な技術も進歩し、産地は福建、浙江、江西、安徽、四川、湖南、広西に集中するようになりました。竹紙は塾料紙と生料紙の二種に大別され、前者には白料紙とも呼ばれ蒸煮、春搗、漂白などの72あるといわれる複雑な工程を経て製造される連史紙、海月紙、玉版紙、奏本紙、貢川紙が含まれます。後者は蒸煮、日光漂白の工程を省略した竹紙で、独特の浅黄色を呈した毛辺紙などが代表的なものです。
浙江省富陽で製造される竹紙は元書紙と呼ばれ、古くは赤亭紙とも呼称されていました。
連史紙は連四紙とも書かれ、その中で肉厚のものは海月紙と呼ばれます。福建省連城や江西省鉛山が主な産地で600年ほどの歴史があります。製作工程中三度の蒸煮、二度の天然漂白が必要で完成まで1年以上の歳月がかかります。“潔白如玉、永不変色、防虫耐熱、着墨鮮明、吸水易乾”と形容される優良な性質を持っていて、篆刻の際の鈴印紙、側款の拓本、古籍の修復等の金石印学の領域で最も多く使用されています。
浙江画仙紙
浙江元書紙で有名な富陽で安徽画仙紙産地と同様の原料で漉いた紙です。安徽に比べてコストは比較的安いですが、水質の違いのためか出来上がってくる紙質にも若干違いがあります。滲み止め加工をしていない生宣と滲み止め剤を漉き込んでいる熟宣があります。
安徽画仙紙
安徽省宣城市で漉かれる紙のことを宣紙といい、厳密には原料、製法、産地まで規定を満たしたもののみが宣紙を名乗ることが可能です。歴史は唐代まで遡り、域内の豊富な清流によって紙漉きの産地として繁栄してきました。最近では原料に外国産のパルプや龍髭草といった原料を混ぜ込んだもともと台湾産だった紙によく似たものを漉く工場が増え、多く日本に舶来しています。
手染め 十色本画仙
書画用紙の製造が盛んな宣城では紙を染めたり金銀粉を振ったりする二次加工業も古くから盛んでしたが、近年では人件費の高騰から機械化が進み、昔のような一枚一枚職人の手で加工することも少なくなりました。当十色画仙紙は昔ながらの製法を継承する職人さんにお願いして昔ながらの製法で染めて加工したものです。職人さん曰く“七成熟”、つまり70%程度の滲み止めになっています。墨液に水分が多いと少し滲むということです。
本画仙 古法 虎皮宣
虎皮の紋様というよりはヒョウやチーターの紋様のような虎皮宣。清代が起源とされ、とある紙漉き工房で既に染め上がった黄色い紙に誤って石灰水を垂らしてしまい、そのまま乾燥した後に紙面に計らずも花のような白い文様が出現したことが始まりです。職人さんによると本来の虎皮宣は北式虎皮宣と南式虎皮宣に分かれ、北式は主に夾宣をもとに明礬水などをスプラッシュして加工し、紋様が鮮明で紙質が厚いのが特徴です。南式は浄皮単宣をもとにもち米汁や小麦粉汁をまいて加工し紋様が味わい深く紙質が薄い特徴があります。近年では紋様事態を印刷して作る廉価な新虎皮宣も出現していますが、本品は昔ながらの製法で一枚一枚手染めし、炭火で乾燥させた古法虎皮宣です。少し値が張ってしまいます。
新蝋箋
厳密にいうと、新粉蝋箋。本物の手描きの蝋箋は図案を一つ一つ手描きで仕上げ、ひと月に1,2枚完成させるのがやっとの大変高価な加工紙ですが、同じ図案を印刷で仕上げコストを大幅にダウンさせたものです。印刷技術が向上し容易に高品質の加工紙を作ることが可能となっています。表面を加工しているので滲みが少ない特徴があります。
絹本
絵絹の裏に画仙紙を裏打ちした書画用の超高級素材です。書画用の絹織物は昔から浙江省湖州市が産地で、書画用のほかに表装用や包装箱用の緞子が多く製造されています。一昔前までは現地で養蚕も盛んでしたが、経済発展とともに生糸の製造は内陸部や海外へ移転している模様です。糸の細さや打ち込み本数、撚糸方法、平織りや繻子織の違い、表面の滲み止め加工、裏打ち方法により様々な種類があります。
写経用紙
仏教経典を書写するための紙ですが、工夫次第で様々な用途に応用できます。印刷技術が発展していなかった時代には仏法を広めるために写経されていました。玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典が唐の長安で翻訳され写経された際に使用した硬黄紙をはじめ様々な写経用紙があります。日本においても奈良時代の天平年間から仏教が隆盛すると写経が一段と盛んになり、官立の写経所が設けられ、専門の写経生たちによって国家事業としての写経が行われました。
信箋、詩箋、紙小物類
信とは手紙のこと、箋とは詩を贈答する際に用いられてきた小型の紙で、唐代の女流詩人である薛涛が考案した薛涛箋をはじめ、時代ごとに様々な箋が用いられてきました。信箋はいわゆる便箋のことで、個人の尺牘が手本となり芸術となり、いつしか箋に書をしたため小作品を作るようになりました。木版水印箋などは篆刻の作品用紙としても多く用いられるようになっています。現代中国においても条幅や扁額作品を書く人は少なくなり、箋類にもっぱら小作品をしたためる潮流が起きていて需要が増しています。
硬黄紙
印刷技術がなかった唐代に玄奘三蔵が天竺から仏教経典を持ち帰り漢字に翻訳したものを広く普及するためには写経生による写経で経典を複製する必要がありました。その際に多く用いられたのが黄檗おうばく(キハダともいう)の内皮の汁で黄色く染められ蝋を塗布して砑光加工された硬黄紙でした。墨が浸透しないため写し書きしても下に敷いた原本を汚さず、長年の保管に耐え得る防虫効果もありました。後世の蘇軾も“新詩説尽万物情、硬黄小字臨黄庭”と硬黄紙について詩の中で述べています。現存する実物は1900年に甘粛省敦煌で発見された“千仏図残片”で、厚地で朱色の印が押されたものです。現代に複製されている硬黄紙の質感は後の時代の蝋箋のような質感によく似ています。
羊脳箋
明代宣徳年間に作り始められた紙で、羊の脳と頂煙墨を一定期間ウド栽培の洞のようなところに埋蔵して寝かせ、これを磁青紙に塗布して砑光加工し光沢を出したもので、金泥で書く用途に使用されました。羊脳に含まれる脂肪化合物が磨かれて光沢の効果が出るらしく、防虫効果もあるそうです。いわゆる五代十国時代からある磁青紙のバージョンアップ版です。
瓷青紙
別名磁青紙、紺紙、碧紙、紺碧紙、紺青紙、青藤紙、鴉青紙とも呼ばれ、五代十国時代から作られる藍染の染色紙で、明宣徳頃から景徳鎮青花釉の鮮やかな青色に似ていることから瓷青紙と呼ばれるようになったそうです。
蝋箋(砑光加工)・粉蝋箋
蝋箋の定義は少しややこしく、定義が曖昧です。テッカテカの墨を弾いてしまうような蝋箋があると思えば、胡粉を塗ったような質感の蝋箋があったりと。一般には粉箋とは鉱物粉や貝殻粉を紙に塗って繊維の間に充填させて密度を高めた紙で、粉蝋箋は更に蝋を塗布して鉱物粉を定着させた加工紙ですが、更に砑光といわれる加工が施されると例のテッカテカのあの蝋箋になるのだとか。つまり蝋を使っている加工紙全般を蝋箋といい、その中でも鉱物粉や貝殻粉を使用しているものが粉蝋箋、硬黄紙などは染料で染めてから蝋を塗るので蝋箋ではあるが粉蝋箋ではないということでしょうか。ややこしいのでここではあの粉っぽいやつを粉蝋箋、テッカテカのあれを蝋箋(砑光加工)と勝手に分類したいと思います。
特価処分紙
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